宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

エスペラントと金石範

目次
暴力的な言語など存在しない
済州島4・3事件
経験していない同時代の歴史的事実を語る
エスペラントの可能性と不可能性



 昨年の10月、宇波彰現代哲学研究所のブログに「エスペラント語の世界を考える」という拙論を掲載してもらった (その後、ウェブサイト「ちきゅう座」と「日刊ベリタ」とに転載されている)。この書評はエスペランティストの伊藤俊彦氏の『歴史・文学・エスペラント』という本について論述したものであったが、この書評をきっかけとしてエスペランティストの雑誌、『エスペラント La Revuo Orienta(略称RO) の編集部の方から、この雑誌に寄稿してもらえないかという連絡をもらった。

 エスペランティストではない私がエスペラントに関する論説を書くというのもおかしな話であるという気はしたが、エスペランティストの外から見たエスペラントという問題も確かに意義はあるだろうと考え、この要請を受けることに決めた。6月の中頃原稿を編集部に提出し、何度かの校正があり、7月の初めにROに掲載される予定である。この拙論に関して、ここで詳しく語ることはしないが、そのテクストではエスペラント問題とミハイル・バフチンの対話理論及び在日朝鮮人作家の金石範の言語観とを絡めて検討していった。バフチンの対話理論については前述した伊藤氏の著作に対する書評でも言及した関係で今回も触れているが、金石範の言語観についてはエスペランティストが被った抑圧の歴史と、金石範を取り巻く言語状況とを比較することによって何か見出せるものがあるのではないかと思い導入した問題であった。しかし、この論説を書くために読んだ金石範の『新編「在日」の思想』の中に書かれている日本語を暴力的な言語と見做す考え方は私に複雑な思いを抱かせた。文字数の制限もあって、この問題を明確に解決することができないまま、ROに掲載した拙論を終えざるを得なかった私は更なる論述が必要であると考えた。そして、この十分に考察することができなかった問題を再検討するために、このテクストを書くことを決めたのだった。

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「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」雑感

社会学、フェミニズムの知見に、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という概念があるらしい。これは、千田有紀によれば、「愛と性と結婚の三位一体」つまり「一生に一度の運命の相手に出会って恋に落ち、結婚して、子どもをつくって死ぬまで添い遂げる」ことを「当たり前」であるとする考え方である。もちろん、これがイデオロギーであるというからには、この三位一体がいかに自然に、当たり前に見えても、不自然であり幻想であり、基本的に近代に形成されたものであるとする学説である。

 そうした学説によれば(千田有紀、大塚明子他)、恋愛は、西欧中世の宮廷愛、つまり、騎士による主君の奥方への愛に起源をもつものであり、結婚と結びつくものではなかったまた、近代以前の結婚は、資産の継承など、政治的、経済的、社会的な利害を考慮して、家族や共同体によって規制されており、個人の意思や感情は問題になるものではなかった。

ところが、18世紀に「ロマンス革命」(ショーター)が起こって、「男女関係が実利中心のものから感情中心のものへ変化」し、19世紀になって恋愛と結婚が結びついたという。これには、下層階級から性革命が起こり、ブルジョワジーに広がったという説と、逆に、恋愛を至上のものとするロマン主義的な小説を読む公衆、中流ブルジョワジーから他の層へ広がっていったという説があるらしい。また、愛ある結婚を求めた女性解放運動もその背景にはあったという(井上俊)。経緯は諸説あるが、西洋において、それぞれ別の由来をもつものであった恋愛と結婚が結びついたのは、近代に入って、それも19世紀になってからということをここでは確認しておけばよい。

これに対して、日本ではどうか。そもそも日本にはロマンティック・ラブなるものは存在せず、「いろ」(好色)はあったが恋愛はなかったという。個人と個人が出会ってかけがえのない関係を結び合うという恋愛は、明治になってキリスト教とともに西洋から輸入された概念であった。そうした近代的恋愛を礼賛した代表的なものとして北村透谷の『厭世詩家と女性』がある(ただし透谷の恋愛は結婚によって幻滅に終わる)。

「恋愛」が「結婚」と結びついて人々の心性を支配するようになるのは、家族全員が生産単位の一員としてなにがしか役割をもっていた時代を終え、男は仕事(生産)、女は家事と育児(再生産)という性別役割分業の上に成り立つ近代家族(核家族)ができてからのことだという。というより、そうした「恋愛」と「結婚」が結びつくロマンティック・ラブ・イデオロギーが、子育てに価値を認める母性イデオロギーといっしょになって、性別役割分業の上に成り立つ近代家族を形成していった、という言い方のほうが正しいかもしれない。ともあれ、こうした傾向は大正期の中産階級に端を発するが、基本的に戦後、高度経済成長期に恋愛結婚がお見合い結婚を上回ったとき、つまり1960年代に事実上完成したのだとされる。

そういう意味で、これは歴史上きわめて新しい体制だということがわかるが、恋愛→結婚→出産というプロセスは、そして異性愛で一夫一婦のペアの再生産は、いかにも当たり前のものとして、あるいは建前の上では少なくとも正しいものとして近代人の目の前にある。そこで、その普遍性を疑うという意味でイデオロギーという言葉が使用されているのだろうが、私には、ロマンティック・ラブという、諸制度からの解放や自由を喚起する言葉と、政治的な抑圧を喚起するイデオロギーという言葉の組み合わせがミスマッチで、それゆえにこの言葉自体にはインパクトがあるように思われる。


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対話空間における間テクスト性と解体構築

 二月二十六日に発刊された『対抗言論』第二号に掲載された子安宣邦氏へのインタビュー記事(「特集1:差別の歴史を掘り下げる」)である「江戸思想史とアジアの近代―日本人と差別の歴史」(以後サブタイトルは省略する) は、子安氏の思想的変遷を知るために大いに参考になるテクストである。もちろん写真なども含めて三十ページ程という短い紙面の中で子安氏がこれまで積み上げてきた複雑で多方面に亙る思想的変遷が語り尽くされている訳ではないが、それでも変遷のアウトラインが明確に提示されている。また、ヘイトについて考える雑誌という特質上、こうした問題と子安氏の思想を無理に連関させているという問題点が存在している点は否まれない事実であるが、それでも子安氏の思想全体を見渡せる一つの見取図が示されていることの意義は極めて重要であると考えられる。

 私はこのインタビューの聞き手である杉田俊介氏のように子安氏の著作すべてを読んだ訳ではない (三十冊あるという氏の著作の中で読んだものは、『「大正」を読み直す [幸徳・大杉・河上・津田。そして和辻・大川]』と『「維新」的近代の幻想:日本近代150年の歴史を読み直す』(以後これらの著作のサブタイトルは省略する) だけである)。更に、私の専門はフランス言語学をベースとした記号学であり、子安氏の専門である日本近代思想史とは遠く離れているだけでなく、日本近代思想史の知識も満足なものではない。それゆえ、私がここでこのテクストに対して行うことが可能なアプローチは、非常に限定的なものにならざるを得ない。

 しかし如何に探究すべき対象に関する知識が少なくとも、探究対象との接点が少なくとも、ミハイル・バフチンが語っているように対象との対話関係を構築することは不可能なものではない。たった一つのテーマ的な接触であっても、語りのスタイルの類似性があっただけでも、歴史的にも、空間的にもかけ離れた二つの言説 (discours) の間に対話関係を築くことはできるのである。私が「江戸思想史とアジアの近代」というテクストに対して、ここで行おうと思う対話的試みは、主に、子安氏の分析アプローチに関係するものであり、すなわち、氏の用いている探究アプローチの中に存在する解体構築 (déconstruction) としてのポリフォニー (polyphonie) 的側面を見つめようとするものである。

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研究所員名簿の記載に関してのお知らせ

2021年1月6日、当研究所主席フェローの宇波彰先生が亡くなられました。
当ブログは先生のご指導の下、多様な知の交流の場を提供することを目的として運営して参りました。
常に学び続け、批評的テクストを世に発信し続けるという先生のご遺志を止めるべきではないと事務局では判断し、今後もブログ運営を継続する方針でおります。

つきましては、研究所員の皆様には所員名簿への記載の可否を2021年内に管理人までご連絡いただきたく存じます。
ご連絡はブログ下部のメールフォームよりお願い致します。

また、事務局より既にご連絡差し上げた方のご連絡は不要です。

今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。





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ブログ管理人
猪股無限

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追悼 宇波彰先生

宇波彰先生が亡くなって、二か月あまりが過ぎた。悲しみは消えないし、そこから完全に癒えてしまいたくもないが、それでも、突然の訃報に言葉を失い、悲しみに包まれた今年初めのあの日に比べれば、今は穏やかな日常を取り戻しつつある。遅ればせながら追悼文を書く決心もついた。

思い起こせば、先生に「宇波彰現代哲学研究所」のブログの記事を書かないかと誘われたのが、2019年の夏。以来、一年半の間に9本の原稿を書いた。どの原稿にも先生は目を通して感想を述べてくださり、次の執筆を促された。ブログという執筆の具体的な場と先生の促しがなければ、ひとりではとても書き続けられなかったと思う。深く感謝している。

先生はご高齢になっても、粛々と執筆を続けておられた。2017年には『ラカン的思考』を出版されたし、最近も、新たにご著書を準備なさっていたと聞く。2007年に自著を出版したあと長く書けないでいた私に、先生は、ヴァレリーの「私は本を書き、その本が私を作った」という言葉を示してくださり、とにかく書くように諭された。先生自身が、若い日にその言葉と出会い、「これだ」と思われたのだという。

その言葉通り、先生は書くということをコンスタントに続けてこられた。とりわけ、先生がお書きになった書評はご自身が把握できないほど膨大な数に上り、絶筆となった原稿も、書評だったのが印象的である。いつだったか、書評は思想的表現の第一歩だというようなことをおっしゃっていたと記憶する。

読書意欲も衰えず、プルーストの『失われた時を求めて』を改めて全巻読み通すということをなさったのも、ほんの三、四年前くらいのことである。読破後、私に『失われた時を求めて』を是非全巻読み通してほしいとおっしゃっておられたが、私は途中で挫折してしまい、経過報告だけにとどまり、読破後の感想をお伝えできなかったのが、悔やまれてならない。

そういえば、先生の初期のお仕事に、ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』の翻訳があった。1970年代、ドゥルーズとガタリの思想を、翻訳によっていちはやく日本に導入なさったことも先生の重要なお仕事だったと思う。

1978年、先生の訳されたドゥルーズ=ガタリ『カフカマイナー文学のために』に対して、寺山修司が、出版後すぐに読売新聞に匿名で書評を書き、それがすぐれた批評文であったことを、先生は何度もおっしゃられていた。寺山についてラカンを用いて書きながらもドゥルーズ=ガタリとの親和性を強く感じていた私は、その書評を読んで、ああ、これが寺山なのかと深くうなずいたものである。

ただ、先生は、ラカンとドゥルーズ=ガタリとの差異は微妙なものだとも言われていた。近年は、ラカンをよく読まれていたようだが、同時に、ガタリの他者への応答力を肯定的にとらえておられたのが印象的だった。そんな先生に、両者の差異がどのように見えていたのか、もっとお聞きしたかった気がする。

先生とは、寺山修司研究の途上で知りあった田中未知さんの紹介で、十数年前に初めてお会いした。頻繁にメールのやりとりをするようになったのは、ここ五年ほどのことだったが、濃密で楽しい時間を過ごすことができた。先生のおかげで長く中断していた執筆も再開し、読むだけでは到達し得ない、書くことでのみ見えてくる地平があることをあらためて思い出したりした。そうした中で、先生の差し出されたヴァレリーの言葉、「私は本を書き、その本が私を作った」の意味を自分なりに理解した気になってもいったのである。こういう言い方が適切かどうかわからないが、それは幸福な時間だった。

二度とかえってこない時間だが、それは、これからもずっと私の記憶の中にとどまり、私を導いてくれるように思う。合掌。


 (2021314日)


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