宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

エスペラント語の世界を考える

 『歴史・文学・エスペラント』という本を知人の言語学者が送ってくれた。この本は伊藤俊彦というエスペランティストが書いた批評集であるが、私はエスペラント語に関する知識は皆無に等しい。だが、そんな私であっても、この本には非常に興味深い問題が多数書かれており、関心が途切れることなく一気に読むことが出来た。また、伊藤は平易な文体で、簡潔にこの本を書いており、その点でも好感の持てる著作となっている。
 しかしながら、この本を読み終えた私は「国家言語ではない言語によって語ることの意味とは何か?」、「エスペラント語で書かれたテクストの政治性」、「エスペラント語と理想主義」という三つの問題について考える必要性を感じた。何故なら、エスペラント語の持つ特殊性は、一般的には言語と密接に連結していると思われている国民性、民族性、地域性といった問題との断然が確実に存在している点にあると私には思われたからである。 

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再び始めること?―認識を巡る思索の書

 7月の中頃、ある研究会の直前、マチュー・ポッド=ボンヌヴィルの『もう一度…やり直しのための思索:フーコー研究の第一人者による7つのエッセイ』(村上良太訳:以後、副題は省略する) という本をもらった。ポスト・モダン以降の新しい哲学者の本だという話を聞いたので、何かちょっとこの本について書こうと思ったが、7月、8月は珍しく仕事が立て込んでいて、じっくりと読む余裕はまったくなかった。読もう、読もうとは思いつつも、私は2カ月間、この本を机の横に放置していた。9月も二週間程が過ぎた頃、やっと面倒な仕事を片付けた私は、この本を手に取った。
 読み始めてすぐに、『もう一度やり直しのための思索』は、かなり難解な哲学的エッセイであることが判った。一般の読者には簡単には理解できない論証があるだけでなく、多くの思想的、文学的知識がなければ、とても歯が立たない学的エッセイであることが判ったのだ。訳注はあるが、あまり参考にはならない。多くの哲学的知識を読者に要求しているこの本の要求に応え得る解説がないのである。それゆえ、私は脚注には頼らずに、かなり貧しいものではあるが、自分の知識だけを頼りに、本文と向き合うべきであると考えた。 


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書評:竹田恵子著『生きられる「アート」 パフォーマンス・アート≪S/N≫とアイデンティティ』

 個人的な思い出話から始めたい。
 それは1984年のこと。季節はいつだったか覚えていない。私は、偶然手にしたチラシに導かれて、京都市立芸術大学の学生劇団が母体になった「ダムタイプ・シアター」という劇団の旗揚げ公演を見た。寺山修司が亡くなり、天井桟敷が解散した翌年のことで、無意識にそうしたものを期待する気持ちがあった。会場で見たものは、今はほとんど忘れてしまったが、舞台美術が俳優と等価に扱われていること、天井桟敷の舞台で見たことのある大きな古い旅行用のトランクが若干のノスタルジーを伴い使われていたこと、パフォーマーの一人が途中で唐突に裸体になったこと、などをぼんやりと覚えている。私は勝手に寺山的なものを感じ取り、「私好みの」舞台だと思った。ちなみに、ダムタイプが当初寺山の影響を受けていたことは、インターネット上の記録によると、2019年、「DUMB TYPEパフォーマンス作品連続上映会」のトークイベントにおける山中透や、2020年、東京都現代美術館での展覧会「ダムタイプ|アクション+リフレクション」のトークショーにおける高谷史郎などの証言がある。さらには、高谷と同じトークショーで、浅田彰が、「60年代の小劇場運動の中でも寺山がきわだってマルチメディア的であり、ダムタイプは80年代にそれを、エレクトロニクスを使ってクールにやった」と語っていることは、ここで確認しておいてもよいだろう。
 当時の私はといえば、後期天井桟敷の可能性を、舞台美術が劇の背景をなすものとしてではなく、俳優と等価に、否それ以上に扱われていることに見ていた(これによってプロセニアムアーチの舞台を超える空間を作り出すことができていることや、こういう設定でこそ現代の人間の条件をビジュアルに表現できていると考えていた)ので、その舞台は、デビューしたばかりでまだまだ未熟だったが、大いに期待を抱かせるものだったのである。
 それから十年後、私はすでに「ダムタイプ」と名を改めていたパフォーマンス集団の≪S/N≫を見る。ダムタイプは十年前とは比較にならないほど驚異的な進化をとげ、そこには「私好みの」といった言葉には到底おさまらない、素晴らしい舞台が出現していた。十年前に見た舞台の諸要素は変わらなかったが、それぞれが第一線のものに変貌し、美学的に洗練されたものになっただけでなく、以前と違い、明確に社会に訴えるテーマをもつものとなっていた。裸体一つとっても、以前は唐突に投げだされただけだったものが、他の要素との兼ね合いのなかで政治的意味を獲得していた。≪S/N≫は、まさしく「古橋が、自らのHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態[クイアー]パフォーマンスを織り交ぜながら全体としてハイ・テックな舞台に仕立ててみせた、衝撃的な作品」(浅田彰)として立ち現れていたのである。しかも、この作品の中心的存在であった古橋悌二は、1995年にはエイズで亡くなり、≪S/N≫は、古橋不在のまま、1996年まで上演を続け、古橋の遺作といった面をもつものになっていった。
 私はこの作品を三度見たが、一度目は、古橋らパフォーマーの、マイノリティとしてのカミング・アウトとアーティスティックなスペクタクルの組み合わせを茫然として見守り、二回目は、そのハイテクな、マルチメディアスペクタクルのひとつひとつに全身を打たれることに快楽を見出し、三度目は、古橋の不在を痛いほど感じながらも、その作品のもつ力を、いまさらのように驚きをもって見つめた…。
 以来、四半世紀、こうした体験は言語化できぬまま、私の中にくすぶり続けたが、今回、ようやく、まとまったものとしては初めての研究書となる、竹田恵子による『生きられる「アート」 パフォーマンス・アート≪S/N≫とアイデンティティ』(ナカニシヤ出版、2020年)という本を手にすることができ、かつての記憶が蘇り、思考を大いに触発された。

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