宇波彰現代哲学研究所

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田母神論文を支えるもの (5)

源氏物語の変身

「すべての小説は政治的である」とかつてスタンダールが言ったという。それは逆の立場から見れば、すべての小説は「政治的に」読むことができるということである。そうであるとすれば、現代の若い作家たちの作品に政治性がないといって批判するのは、そこに政治性を見出す眼が不足しているからではないだろうか。
「源氏物語」はきわめて政治的な小説である。しかし私がここで「源氏物語の政治性」というのは、「源氏物語」に描かれている平安時代の政治状況についてのことではない。いわゆる「源氏物語千年紀記念行事」の政治性の問題である。
雑誌「ユリイカ」の2008年12月号は「母と娘の物語」を特集しているが、その特集とは別に、連載もののひとつとして、竹西寛子の「古典の目」というエッセーが載っている。竹西寛子は日本の古典文学に通じている方であり、私も何冊か彼女の著作を持っている。彼女の文章には一種の「落ち着き」のようなものがある。このエッセーを読むと、彼女の文章が国語の教科書や予備校などの受験勉強用のテクストに採られているというが、それは充分にありうることであろうと思える。ただし、彼女の文章がどうして教科書に採用されているのかは、別の問題として考えなくてはならないだろう。
しかし.「ユリイカ」に掲載されたこのエッセーで語られていること、竹西寛子がいかなる批判の意識も抵抗の意志もなしに認めてしまっていることの中には、私にとっていわゆる「違和感」のあるものがある。このエッセーによると、2008年10月から11月にかけて、東京と京都で「源氏物語千年紀記念式典」が行なわれたという。その「呼びかけ人」は、千玄室、秋山虔、梅原猛、瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、芳賀徹、村井康彦、冷泉貴美子の諸氏である。いずれも何らかの意味で「源氏物語」にかかわっているひとたちであると思われる。また「千年紀委員会」がつくられ、会長は村井純一(京都文化交流コンベンションビューロー理事長)、副会長は山田啓二(京都府知事)、門川大作(京都市長)、久保田勇(宇治市長)、立石義雄(京都商工会議所会頭)である。この方々は、行政に関係するひとたちであり、直接に「源氏物語」とつながるがあるのではない。こうしたメンバーの顔ぶれを見て、立派な催しだと思う人たちと、これはおかしいと考える人たちとに分断されるはずである。もちろん私は後者である。「源氏物語」が京都の府知事や市長たちによって、さらには「国家」によって「政治的に」利用される構図が明白に読み取れるからである。
竹西寛子は、こうした催しが「個人的な愛好家の催し」ではなく、「大きな計画的組織」であることを高く評価する。私は「大きな計画的組織」であることに疑念を抱く。ここがすでに竹西寛子と私との違いになる。11月に京都で行なわれた記念式典で、竹西寛子は基調講演をするが、彼女のほかに平川祐弘、ロイヤル・タイラーの二氏も講演したという。不勉強でロイヤル・タイラーがどういう方が存じ上げないが、平川祐弘は前回のこのブログで紹介したように東大名誉教授、「国家基本問題研究所」の理事であり、渡部昇一、鹿島茂と「諸君!」2008年7月号で中学校の教師の必読図書100冊を選定していた方である。

国家行事としての「源氏千年」

京都での「式典」は11月初旬の4日間にわたって行なわれたが、そのうちの一日には文部科学大臣の挨拶があり、さらに天皇皇后両陛下もご出席された。「源氏物語千年紀記念」の行事が「国家的」なレベルで行われたことがわかる。竹西寛子には皇后陛下と話す時間が与えられたが、そのことについて「皇后陛下のご聡明とお心遣いのほどに、皇室をいただく国家の誇りを新たにした」と感想を述べている。この感想は、竹西寛子の意識が文学としての「源氏物語」の領域からすでにはるか遠い場所にあることを示している。「源氏物語」を読む者が、いつのまにか「皇室をいただく国家の誇り」に言及する今日のわが国の文化状況をよく認識しておくべきである。
「源氏物語」に非常に詳しいある或る若い友人に、この竹西寛子の文章のコピーを、私のコメントを付けずに送ったところ、彼は私以上に憤慨し、「源氏物語千年紀は完全に天皇制賛美のイベントとなった」と手紙に書いてきた。「源氏物語千年紀記念行事」の問題は、日本以外の国を軽視する田母神俊雄論文の問題と不可分である。  私が『源氏物語』に関心を持っていることを知ったある若い編集者が、三田村雅子の『記憶の中の源氏物語』(新潮社、2008)を買って送ってくれた。それを読むと、この源氏物語研究の第一人者も「源氏物語千年紀行事」に批判的であることがわかった。三田村雅子は、このすぐれた源氏物語論の末尾で、「源氏千年紀のお祭り騒ぎを盛り上げるためではなく、その意味を深く静かに問うために」この本を読んでほしいと要望している。これこそが『源氏物語』に対するまともな態度だと私は考える。


(2009年3月2日)

(付記。本稿は、雑誌「情況」2009年3月号に掲載されたものである。その拙稿に加筆して「ちきゅう座」のサイトに掲載したが、事実誤認を指摘して下さる方があったので、多少の訂正を行い、さらに加筆してここにアップすることにした。 なお、この拙稿と直接の関係はないが、最近に私が公にした文章は、明治学院大学言語文化研究所の「言語文化」第26号に掲載された「ラカンの記号空間」、書肆吉成から年3回刊行されている「アフンルパル通信」第7号に掲載された「甘楽の赤武者」である。両誌の入手をご希望される方は、このブログにリンクしている明治学院大学言語文化研究所、書肆吉成にご連絡下さい。なお、「ラカンの記号空間」は、このブログにアップされている拙稿「二つの論文の行方」で言及されているもののひとつであり、それが「穏当を欠く」という理由で結局ボツにされたのが、根拠のあることであったのか、読者の判定を仰ぎたい。2009年3月27日)
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