宇波彰現代哲学研究所

多種多様な「知」の交流を通じ文化創造との実践的な橋渡しをめざし、新たな学問分野の開拓を行う研究機関のブログです。

書評:堀江秀史著『寺山修司の写真』

 今回とりあげる書物は、堀江秀史著『寺山修司の写真』(青土社、2020年)である。

「寺山修司の写真」というと、さまざまなジャンルを横断したことで知られる寺山は写真にも手を出していたのか、と驚く人が多いだろう。あるいは、少し詳しい人なら、天井桟敷の活動に平行して撮られた1970年代の幻想的な演出写真を思い浮かべるかもしれない。1975年には『幻想写真館 犬神家の人々』(読売新聞社)を出版しているし、死後25年経った2008年には『写真屋・寺山修司 摩訶不思議なファインダー』(フィルムアート社)が田中未知の手によって刊行されている。しかし、一般的にいって、寺山は、写真というジャンルについては、これまでのところ、短歌や映画、演劇活動ほどには重要視されておらず、本格的に論評されることはなかった。

そんな中で上梓されたこの著作は、寺山が、1960年代に、写真史上重要な位置を占める中平卓馬と森山大道という二人の写真家の駆け出しの頃を企画組織者、批評家として支え、濃密な相互交渉をもっていたことにスポットを当て、その写真史的な意義を明らかにすると同時に、1970年代以降にみせた寺山の写真家(アマチュア、半写真家)としてのありようを、そうした相互交渉の産物として読み解きながら、独自の視点でアプローチした書物である。

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生命の根源としての血の流れ

 1118日から来年の124日まで、さいたま市のうらわ美術館で「芳年―激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」という展覧会が開催されている。詩人の野口米次郎が『六大浮世絵師』の中で「最後の浮世絵師」と呼んだ月岡芳年。江戸川乱歩が「残虐への郷愁」と、三島由紀夫が「飽くなき血の嗜慾」と述べ、彼の描いた血みどろ絵を偏愛したことはよく知られている。また、永井荷風が「明治に於ける江戸浮世絵最終の悌なり」と語り、称賛した美人画を描いた芳年。彼の作品を見るために私はこの展覧会に向かったのだが、芳年の作品全てに強く惹かれた訳ではなかった。私が見つめたいと思ったものは、戦争絵を描いた画家としての彼の作品であった。

 私は二年前に「藤田嗣治あるいは戦争画の巨匠」という拙論を書いた。その中で藤田の 「アッツ島玉砕」(1943:以後、作品の後に書かれた数字は制作年である)、「血戦ガダルカナル」(1944)、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945) といった戦争画には芳年の血みどろ絵や戦争絵の影響が少なからず存在しているのではないかという仮説を提示したが、この仮説をもっと厳密に、多角的視点から見つめていく必要性を感じていた。今回の展覧会はこの検討を行うために絶好の機会を与えてくれると思われたのである。

 それゆえ、ここで検討する問題は芳年の作品のみに焦点を当てたものでも、芳年の浮世絵全体を対象とするものでもない。日本の戦争画を俯瞰した場合の芳年の作品の位置というものの考察と、芳年の錦絵と藤田の後期戦争画と呼び得る作品とを比較することにあるのである。

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書評:宇佐見りん著『かか』

今回とりあげる書物は、2019年に文藝賞、2020年には三島由紀夫賞を受賞した、宇佐見りん著『かか』である。文藝賞は20歳という若さで受賞し、三島由紀夫賞も最年少の受賞となって注目を浴びたが、若さゆえの新生さと、若さには不似合いなほどたくらみに満ち、思想性をひそませた作風に、私はすこぶる感銘を受けた。以下、現在思いつく限りを書いた書評である。

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エクリチュールの時間と色彩

  ジャンルとテーマはミハイル・バフチンの対話理論の二大基本概念であるが、彼は『言説ジャンル』の中で、「話し手が語ろうと望むことは、何よりもまず、言説ジャンルの選択・・・・・・・・・として実現される。この選択は言葉のやり取りの定められた範囲、テーマ的な必然性 (意味の対象)、対話者の構成的総体などの特異的機能によって決定される。その後、話し手のディスクール構想が自らの個人性や主観性をなくすることなく、選ばれたジャンルに順応し、適合し、定められたジャンルの形式の中で組み立てられ、発展していくのである」と語っている。ジャンルとテーマはテクスト構築において相互依存関係にある点をバフチンは重視したが、彼の主張が正しければ、ある著作のジャンルを探ることによって、その著作のテーマあるいは意味的な方向性を導くことが可能となるはずである。しかし、ある著作が常に特定の典型的なジャンルに区分できる訳ではない。混在されたジャンルの上に立脚した作品も存在する。その場合、作品はジャンルの安定した基盤を失い、新たなジャンルの構築に向かう点もバフチンは強調している。
何故ジャンルの問題に関するバフチンの理論を最初に提示したのか。それには以下のような理由がある。これから考察しようと思う林完枝の『青いと惑い』という作品が、オートフィクションというジャンルに属するテクストであるからである。オートフィクションについては後続するセクションで詳しく論じるが、伝統的なジャンル形式には属さない混在したジャンルの一形式と述べることができる。単純化すれば、自伝とフィクションとが融合されたジャンルの作品に対して命名されたジャンルであるが、『青いと惑い』はオートフィクションであっても、典型的なオートフィクションに属する作品としてしばしば言及されるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とは大きく異なる特質によって構成された作品である。それゆえ、ここではまずオートフィクションというジャンルの問題について検討しようと思う。
第二の考察視点としては林の作品の特殊性を探るためには、伝統的なテクスト分析概念に頼ることはできない。何故なら、彼女のテクストは様々な側面で多層的・多重的な構成体であり、この複合性を明らかにするために新たな考察視点が必要となるからである。林の作品を究明するためにはスラヴォイ・ジジェクが『斜めから見る:大衆文化を通してラカン理論へ』(鈴木晶訳:以後サブタイトルは省略する)の中で展開した「斜めから見る」という方法を用いる必要があると考えられる。この方法を通して、『青いと惑い』の持つアナモルフォーシス的な多元的テクスト構造を明確に提示できるように私には思われるからである。
 第三の考察視点は第二の考察視点に基づくテクスト分析の結果を踏まえながら、『青いと惑い』のテクスト構造をより具体的に検討するために時間性という問題とエクリチュール内の色彩表現問題に絞って林の作品を見つめていこうと思う。この二つの問題を探究することで作品の中心軸が端的に理解できると考えられるからである。
 以上の三つの視点を用いて、『青いと惑い』という複雑に錯綜した著作について考察していくが、最初に注記しなければならない点が一つある。ここで行われるテクスト解釈は林のテクストの意味構造を探るものではあるが、それは大文字の意味として機能するテーマを見つめようとするものではなく、ポリフォニックな対話空間の中で作品の主旋律に隠れた小さな声に耳を傾けようとするものである。それゆえ、私はテクスト全体の持つ大きな物語とは敢えて積極的には対峙せずに、『青いと惑い』の中にある消え入りそうないくつかの囁きに耳を傾けるつもりである。

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エスペラント語の世界を考える

 『歴史・文学・エスペラント』という本を知人の言語学者が送ってくれた。この本は伊藤俊彦というエスペランティストが書いた批評集であるが、私はエスペラント語に関する知識は皆無に等しい。だが、そんな私であっても、この本には非常に興味深い問題が多数書かれており、関心が途切れることなく一気に読むことが出来た。また、伊藤は平易な文体で、簡潔にこの本を書いており、その点でも好感の持てる著作となっている。
 しかしながら、この本を読み終えた私は「国家言語ではない言語によって語ることの意味とは何か?」、「エスペラント語で書かれたテクストの政治性」、「エスペラント語と理想主義」という三つの問題について考える必要性を感じた。何故なら、エスペラント語の持つ特殊性は、一般的には言語と密接に連結していると思われている国民性、民族性、地域性といった問題との断然が確実に存在している点にあると私には思われたからである。 

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